セラピストアフロマンの日記

リラクゼーションが生業のアフロマン。ドラマーとちょこっとギターヴォーカルな仏教徒

コロナウイルス

やはり、自分の目で見て感じたことでなくては人は動けないということなのかもしれない。

そして、どんな言葉より、ひたむきな行動に勝るものはないということなのか。

 

舐めているわけでもないし、自分は罹らないとも思っていない。むしろ、眼に見えない敵に対してあらゆる情報を見聞きし、間違いのない正しい解釈をできるように努め、「罹らないそして罹っても移さない」ようにしているつもりだ。それ故に、、たまに誤った情報を鵜呑みにしてしまうこともあれば、多くの情報に、ある種「心の芯」というか、軸というか、それが右往左往してしまうこともある。それでも、心を切り替えて情報収集をしどう立ち回っていけば良いかをその都度見直してなんとか乗り越えていきたいと思うわけである。そこで、少し勘違いをしている自分にも気が付いた。その実態を知れば知るほど、というか知ったつもりになって自粛の気持ちが少し薄れていたと思う。しっかり予防をしていれば多少は外に出ても大丈夫だろうと、思ってしまっていたことに、、、

 

そんな中、少し気になる動画が日本に向けて寄せられている。

「海外からの忠告」的な動画だ。

自粛をしないとダメ!最悪なことになる!花見なんか呑気に行っているなんてありえない!等々、、

現地の事細かな状況を含めそれをメッセージとして送ってくれた人には大変申し訳ないが、、これについて、思うことは、、、、逆効果のような気がしてならない。

たとえば、テレビ番組やYouTubeでもそうだが、そういった「現地の状況と情報を知りたい」という主旨で行われている会話的な動画であれば、それを見聞きして思考を巡らせることができる。

けれども、自らメッセージを発信してきている人が多数いてくれていることついては、本当にその気持ちは嬉しいのだが、その有難さが、、少し通り過ぎてしまっている。あるいは、恐怖を煽ることに繋がってしまっているところもあるような気がしてならない。

人は、もしかすると、どんな状況であっても、あるいは、こんな世界的な類を見ない感染であったとしても、「自分の意思でないとそうしない」ということの表れなのではないかなと思う。

 

一方で、たった今大事なことに気付き我に返る瞬間があった。

それは、医療現場でのひたむきな姿だ。ひたむきというと聞こえが良くなってしまうのかもしれない。万全ではない状況の中、一時離脱をしてしまう人もいて人員的にも万全ではないその現場をテレビで見て、何やらこう、小さい頃親父に頭を引っ叩かれて叱られた時のような、、なんでこんなことにすぐ気が付かなかったんだろうと、、、猛省とはこういうことをいうのだろう。

 

何一つ文句も言わず、、いや、言っているはずだ、いやいや、あたりまえだ。それでも、見えない敵に立ち向かっている人達を見て、、桜を見に行こうとは思えないな。

この人達は、かえりみずやるしかない!

それに比べてわたしは、手洗いをいつもより入念にたくさんして家にいればそれで良いのだ、、、

そして、みんながこのことに気が付けばとは思うが、、これをたとえばわたしが「みんな!気づいて!」って発信するのは、おそらく少し違うのだろう。

 

自粛に詰まったら、医療現場で闘う人達を思い出そう。